和風だけはやめて欲しい

●生活へのイデオロギーの押し付けは困る

 和風と京都らしさ、その地域らしさという言葉は本質的に異なる言葉だ。
 和風でも京都らしくないものもあれば、当然、和風でなくても京都らしいものもある。
 生活が変化していく中で、形もまた変化していく。周辺との調和や、歴史を一顧だにしないデザインは困るが、周辺に調和する形や、京都らしい形が「和風しかない」という決め付けもまた、どうかしている。
 たしかに現代生活のなかでも素敵に見える和風もあるし、和風に暮らす人を尊敬の眼差しで見てしまう事もある。しかし一方で、「洋服をきて、クルマにのって、エアコンをつけて、何が和風やねん」とも思う。
 だいいち和風、和風というが、景観地区に限っても、どれだけ和風の町並みが残っているのだろうか? 僅かに残る路地奥の和風が感じられる空間を、都市計画法や建築基準法で痛めつけておいて、何が和風か!?
 そのうえ、和風には中味がない。井口さんが書かれているように、広く解釈すれば「日本で、日本人のためにつくられた」ものである。裏返せば、排他的、排外主義的な核しかもっていない。
 金澤さんが指摘しているように、京都は、あるいは日本は、そんな排他的なところではなかったはずだし、あってもならない。
 また、漠然とした意味合いは、市民にも理解できるが、細かく議論されればされるほど、理解不可能な、縁遠いものになってしまう。たとえば「コンクリートでできているけど、これは和風」、「木造、屋根付きだけどとても和風とは言えない」といった専門的な議論は、大学内の学問の領域でなら勝手にすれば良いが、だから「あんたは、こうしなさい」と言われるのは、とんでもない話だ。
 事は「権力で個人の生活を規制する」という政治の問題である。そこにイデオロギーを持ち込まないで欲しい。
 まして井口さんのように、現代建築に意図的に具体的な形としての和風を持ち込むことを強制するなどということは、決して許されない。仮に90%の合意があっても、強制してよいものかどうか悩ましいと思うが、先般の景観政策への市民の高い支持がそこまでのことを含んでいたとはとても思えない。それは内藤さんの報告一つとっても明らかではないか。
 かつて近代建築を旗印に、法律をつくり、事業を押し進めてきた人たちが、今度は和風を旗印に同じことをしようとしていると見えてしまう。
 やはり丸茂さんが、ハンナアレントをひきながら強調したように、「「世界の物」は専門家が作るべきであるが、「いかなるものが世界に現れるべきか」については、市民がこれを選ばなければならない」という原則を忘れてもらっては困る。京都に何が現われるべきなのか、市民はまだ選んでいないし、それ以前に理解可能な形で提示されてもいない。

●景観への権力行使は最小限で

 高さや容積は緩和しても、強化しても、変更しなくても得をする人、苦しむ人がいる。その手続は民主的であるべきだが、いずれにしても三つのうちの一つを選ぶしかない。
 しかし、デザインも同様なのだろうか?
 強制する点は最小限に絞り、協議する点(知恵を出し合う点)は最大限に広げ、一人一人が勝手気侭にやっていては失われてしまう良さを、ちょっとした配慮で守る、納得づくで協力する程度に留めるべきではないか。
 その際、行政は数値にとらわれることなく全体を見て判断してほしい。しかし、そのためには周辺環境を誰よりもよく知っているぐらいの経験と知識が前提だ。現場を全然知らないのに、京都は平入りだとか、庇があるんだとか観念的に言われても困る。
 なんでも京都市は「和風とは何か」を建築学会に調査委託しているとのことだが、そういう調査は、いかにも和風というところを取り出して、現実の街、その大部分をしめる普通の街とかけ離れた議論にならないかと危惧する。そんなことをするお金と時間があったら、街をきちんと見る事にお金と時間を使ってほしい。

 補足:そんなに目くじらを立てなくてもという声が聞こえてきそうだ。しかしドイツのハイマート運動が、本来は生まれ育ったところ、なじみのある場所をさしていたにも関わらず、ドイツ民族のふるさとという虚構にとらわれることによって、ナチズムに吸収されたことは忘れてはならない(『都市美』赤坂論文参照)。参考文献を探し出せないが、日本の戦前の風景論・運動にも同様のことがあったと聞く。現実の街を見ないで、虚構(和風)を追いかけるのは危険だ。

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